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ねことみみず

未分類
02 /25 2014
すべての人類が、みんな同じ感覚と同じ感性と同じ考えと同じ宗教観念、物理観念、精神観念を共有したなら、それはきっと地球上から争いをなくす唯一の手段だけど、それはつまり皆が同じ、皆がひとつの存在であるのと同義で、つまりそれって、地球上に人間が独りしか存在してない状態と同じことなんだろう。

それってすごく孤独だ。

孤独はあらゆる不幸の上をいく、この世の最強の不幸だって聞いたことがある。

その話が本当なら、この世で最も平和な状態というのは、同時に最も不幸な状態ということだ。

そうであるなら、思想の違いから憎みあったり殺し合ったりして、立場が違うために奪い合いあったり罵り合ったりして、"自分の側"と"そうじゃない側"を隔てて、自分の側を守るためだけに他者を執拗に攻撃したり排斥したりする、そんなことが日常的に起こり続けてるこの現実の世界の有様は「最も不幸である状態」を回避することに、常に成功していると言えるんだろう。

至高じゃないけど、最悪でもない。

だけど、そもそも至高が最悪なんだから、至高じゃない状態が最高なのかもしれない。

つまり8歳の女の子がレイプされて殺されたり、宗教上の理由から、異性と言葉を交わしただけで嬲り殺されたり、株式操作して一部の資産家が儲けるためだけに数百人が自殺に追い込まれたり、一部の国の経済を支えるために、地球の裏側でわざと紛争を煽ったり兵器を流入したりさせたりして、そうやって成り立ってるこの世界は、この世界こそが、きっと最高なんだ。

最高の世界を、最高だと思えない自分は間違ってるんだろうか。

あらゆるものは、ありのままでいい、そう感じる自分がいて、あらゆるものは変わるべきである、そう感じてる自分もいる。

世界に対する愛情と憎しみがほとんど同じ値で入り交じって、高校2年くらいの頃からずっとそんな感じだから、一瞬たりとも手放しに幸せな気分にはなれないし、絶望して自殺する気にもなれない。

自分の感じる幸福感も、絶望感も、どこか借り物のようで実感が無い。

自分は多分生きてるんだけど、生きてるんだという実感が無い。

実感があったことなんかない。

量子力学を科学と定義するか、妄想と定義するかはその人それぞれだけど、量子力学なんてものをそもそも確立した人達は、きっと"こういう人達"だったんだろう。

すぐ手前の交差点で、しましま模様のネコがトラックに撥ねられた。

大きな音がした。

頭からコップ一杯分くらいの赤黒い血を垂れ流して、それが周囲のコンクリートをどろりと染める。

目はぼんやり開いてるけど、多分もう見えてはいないだろう。

1分くらい、足を何度かばたばたさせた後、身体がぎゅーっと伸びて、その後息絶えた。

完全に動かなくなるまで僕はそれを見てた。

夜の9時くらい、駅前で偶然ばったり会った洋一郎と一緒に、彼がおごってくれた缶ビール片手にそれを眺めてた。

これが"みみず"だったら僕はそうしなかったろう。

気にも留めずに歩き去っただろう。

ゴキブリや害虫だったら"ざまあみろ"くらいに思ったかもしれない。

同じ生き物なのに、同じ生命なのに、人間側の尺度で優劣を定めて、優れたものが死ねば悲しむし、劣ったものが死んでも気にも留めない。

ネコとみみず、じゃなくて、どちらも同じ人間だったらどうだろう。

ネコをかわいい女の子に演じてもらって、みみずをみすぼらしいおっさんに演じさせて。

同じようにトラックで撥ねて殺す。

みすぼらしいおっさんでも、やっぱり同情くらいはするだろう。

みみずに対して向けるよりは、情のある目を向けるかもしれない。

自分の序列はどこだろう。

ゴキブリよりは上?みみずよりは上?おっさんよりは上?美少女よりは下?

生けとし生きるあらゆるものには値札がついている。

刑罰やなんかとは別に、ただ小銭のために、合法的に殺処分されてる人命だって世の中には沢山ある。

もしあなたが、合法的な処分をくだされた命の身内であったなら、あなたはその処分を真っ当とする世界を許せるだろうか。

世界の平和と世界の滅亡、どちらか一報を願わなければならないとしたら、あなたはどっちを願うだろう?

どちらであれ、選べる人はきっと”不幸ではない人”だ。

そうじゃない人も世の中には沢山いる。

誰が死んでも、気にも留めない人だ。

身内も、気にかける相手も、気にかけてくれる人もいない、孤独な人だ。

彼らは、平和か滅亡、とりわけどちらかを選んで望むことはしないだろう。

どちらだっていいのだ。

何も、違わないのだ。

人類が、アメーバ状の有機物から派生して進化した生き物であるという説が本当なら、人は路肩で干からびた”みみず”にだって、轢かれて死んだネコに対するものと同様の哀れみを示すべきなのだ。

人類の不遜はいずれ世界を滅ぼすだろう。

破滅は、きっと想像を超えた形でやってくる。

SF映画でよく描かれるような、そんな分かりやすい荒廃や虚無とは根本的に違う、もっと全く別の形でそれはやってくる。

人はきっとそれを破滅と認識しない。

ただひとつの変化として、それを受け入れるんだろう。

終わる世界を眺める僕の目つきは、轢かれたネコを見る際のそれか、それとも干からびたみみずを見る際のそれか。

どちらであれば、より好印象を与えることが出来るだろう。

そんなことばかり考えて、"良き人"を演じてるんだ。

心なんてきっとそこにはない。

実感のない幸福と不幸、なぜそうであるのか、その理由はきっとそこにある。

ネコとみみずと人間を同列に扱えるようになった時、僕は人間ではないものに変化する。

人間の形をした、人間ではない何かだ。

それが、人々の目に悪魔と映るか、天使と映るか、あるいは空気のように映ることすらしないかもしれないけど、それはそうなった後の問題だ。

ただ、その変化を僕の心は欲してる。

本心はいつだって、見えるところと別の場所に置いてある。

心を隠してるわけじゃない。

見えるところに置いたとして、誰にもそれを理解することは出来ないのだ。

暗闇がやってくる。

同時に光もやってくる。

僕はそれを眺めている。

眺めているのだ。

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メランコル

基本エッチな絵を描いてます`~`

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