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感度と感受性

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10 /09 2013
感度が高い人と感受性が高い人って、よく一緒ごたにされるけど、本当は全く別の気質を指す言葉なんだと思う。


読み取り解像度の低い安物のマウスを使って、パソコン側でマウスポインタの移動速度を最大にする。

で「ポインタの動きを滑らかにする」からチェックを外す。

そうすると、マウスにほんのちょっと触れただけで、マウスポインタは画面の右端から左端へ、一番上から一番下へ、一瞬で行ってしまって、とてもじゃないけど繊細な作業は出来ない。


これが、感度の高すぎる状態だ。


自分なんかもそう。

よく「あなたって感受性が強いのね」みたいに言われるけど、逆。

感受性じゃなくて、感度が高すぎて針が右へ左へ振り切れやすいだけ。



本当の意味での感受性が高いっていうのは、そうじゃないんだ。


「感度が高すぎるマウス」とは逆に、マウスを右へ左へ動かすと、マウスポインタは微細な動きをそのまま体現して、その繊細な動きをするマウスポインタが動く軌道上にある一つ一つを、人生における1ドット分ずつに内包される尊さを感じて、吟味して、大事にできる、それが本当の意味での感受性の高さってやつなんだと思う。


だから、感度の高さと感受性の高さって、ほんとは真逆の性質なんだ。


大半の人はこの2つを混同して、「普通の人以上に、精神的な事柄に敏感な人」を全部「感受性が高い」って言っちゃうけどさ。


今朝、夢に大切だった人が出てきた。


何もかもが上手く行かなくて破綻する夢だったけど、それはまるまる現実を劣化コピーさせたような代物で、馬鹿げた突飛な夢の中で、喪失を追体験したんだ。


目が覚めると意識は異様に昂ってて、頭のリソースは喪失に関する事柄で全て埋め尽くされてる。


鋭敏過ぎるマウスポインタ。


手を触れただけで、画面の端っこまで飛んでっちゃう。


キャリブレーションは効かない。


盲目になって、些細な動きに対する繊細な認識力をロストする。


最果てから最果てへ。


うまくいきそうだった試みの全てが一瞬でどうでもよくなって、破綻のイメージしか抱けなくなる。


自分の中にどうしようもなく姑息で卑怯な自分がいて、そいつはずっとブツブツ念仏みたいに言ってるんだ。


しょうがなかった。どうしようもなかった。誰にもどうにも出来ない事だった。だから自分は悪くない。、相手が悪いわけでもない。あれはどうしようもないことだった。なら、現状は最善だ。何も間違ってない。どうしようもなかったんだから、どうにもできなかった自分は正しくて、その道の上でノウノウと「それなりの今」を満喫してる自分は間違ってない。この喪失感こそが間違ってるんだ。
どうしようもなかったことなのに、どうにかできたはずなんて思うから喪失感で埋め尽くされる。どうしようもなさを認めれば、現状は何も間違ってない。どうしようもない事柄に翻弄されて、ただ流されて今に至っただけだ。自分は間違ってない。自分は悪くない。だから気に病む事もない。苦しむ必要もなくて、悲しむ必要もない。


そんな考えをアンチテーゼのようにぶつけて、ぶつけて、再三ぶつけて、今朝見た夢がもたらす最悪な残響音を掻き消そうとしてるんだ。


自分は、感度に関して言えば、高い部類の人間なのだと思う。


けれど、決して「繊細で感受性が豊かな人間」ではない。


もしそうなら、これほど盲目にはならないでいられるはずなんだ。


喪失の悲しみって、実は誰が味わう悲しみも、本当は大差ないんじゃないかって時々思う。


恋人を失って、茫然自失で路上に座り込んでた時、今風な若者が酔っ払って絡んできて、彼も、恋人に捨てられたんだと言う。


「でもやっぱウジウジしてちゃだめっすよね!次っすよ次!さくさく行かなきゃ人生待ったなしっすよ!」


ってさ。


そんな風に言える彼の喪失感は、自分が今感じてる喪失感より軽いわけじゃなくて、きっと彼も自分と同じくらい鮮烈に喪失感を感じてて、泣きたいくらい痛みを感じてて、ただ彼は針が振りきれて盲目にならずにいられるから、そんなふうな前向きな選択も出来て、対する自分は「感受性ではなく感度」が高すぎるから、いつまでも針が悲しみサイドに振り切れたままで、自分と彼の間にあるのはそういうキャリブレーション的な部分違いであって、だから本当は、人の痛みって実は、自分が感じてるそれも、他人が感じてるそれも、それ自体はあんま大差ないんじゃないかって。


その時、そう思ったのを今思い出した。


確信のような気持ちもある。


人は、他者の痛みを本当の意味で理解することは出来ない、とある人は言う。


でも現実はそうじゃなくて、同じ痛みを味わった人なら、その痛みそのものを理解する事は本当はできるんだけど、その痛みに対する反応の度合い、つまり「感度の違い」がそこにあるから、同じ出来事でも、受け止め方が人によって千差万別って形になるだけでさ。



家族をレイプされて殺された親が言う。


「あんな酷いことが平気でできる犯人は絶対に死刑以外ありえない。娘の味わった苦しみをあいつにも絶対味わわせてやる」


また別の、事件に巻き込まれて恋人を失った人がいう。


「確かに犯人が憎い。殺したいほど憎い。けれど、自分が憎しみに囚われて、盲目になって、復讐心という悪魔に取り込まれることをこそ、死んだ恋人は一番望まないだろうから、自分は憎しみと復讐に堕ちる事は出来ない。そして人間は変わっていける生き物だ。自分の大切な人を殺した彼だって、いつかどこかで自分の過ちに気付く時がくるかもしれない。そんな人間の持つ可能性さえ見失ってしまう事を、自分が「そういう風に欠落した人間」になってしまうことを、やはり死んでしまった恋人は絶対に望まないだろうから、死んでしまった恋人を切実に思えばこそ、恋人を殺した犯人を許すしかないんだ。それ以外を選ぶことが自分には出来ない」


感度の違い。
感受性の違い。


大事なものを奪った犯人を許せるような、そういう感受性にいつも憧れてた。


でも現実の自分は無駄に感度が高すぎて針はいつも右か左に振りきれてて、言ってしまえば感受性の高い人間に憧れたのだって、感度の高さ故なんだ。


ずっと感受性の豊かな人に憧れてた。


そうなれる自信は年々すり減っていく。


むしろ感受性の対局にいる自分には、到底無理なんじゃないかと思う。


自分を信じること、自分を愛することは何より難しい。


自分を愛してるかどうかについても、今ちょっと考えた事があるんだ。


よく、強欲で我侭な人を「自己愛が強い」というけど、自分もずっと、今さっきまでそう思ってたけど、それってやっぱり誤りだと思う。


自分を本当に愛してるなら、何が無くたって、欲しいそれに手がとどかなくたって、それでも自分を愛せるはずなんだ。


自分自身をありのままに愛せていないからこそ、欲しいものを手にすれば、自分の人生を今より愛せるんじゃないかと考えて、強欲になるんだ。


だから、強欲な人、我侭な人って、ほんとは自己愛が強い人なんじゃなくて、自分を愛せない人なんだと思う。



かくいう自分は、残念なことに、とても強欲な人間だ。


今まで色んなものを失ってきたし、奪った人間に対して「それでも許したい」と心の表面でそう思いながら、でも、心のどこかではずっと憎み続けてきたんだ。


許したいと思う、その願望と、許すことが出来ない現実の自分はだんだん乖離していって、もう手を取り合うことも出来ない。


僕は多分いつまでも、許したいと願いながら、許せない人間のままなんじゃないかって思う。


人を本当の意味で許せる人間は、自分自身を許すことも出来るんだと思う。


自分を許せない人間は、やっぱり本当の意味で人を許すことも出来ないんだと思う。


許したふりをするのが精一杯でさ。


許すことに精一杯になるべきなのに、いつだって許した「ふり」をすることに精一杯で、根本からずれてるから、何も良くはならなくて、むしろ悪い方へ悪い方へ、さ。


自分の人生もだけど、ある種の人達は大抵同じようなスパイラルに陥ってるように思う。


そうして世の中は少しずつ悪くなっていって、陰惨な様相を呈するようになっていく。


自分はいつも「少しずつ悪くなっていく世の中」を敵視して、文句をつけてきたけど、現実には、自分も世の中を悪くしてる側の一人なんだと思う。


自分で世の中を悪くしながら、悪くなった世の中に唾を吐いてさ。


そうやって余計悪くなっていくんだ。


悪意のある大人たちがしてることは、大抵自分自身がしてきたことでもある。


だから、結局つまりは自分が許せなくて、だから人が許せなくて、だから。


いつか許せたらいいと思う。


許すためには、上辺じゃない、本当の愛が必要なんだと思う。


いつか出会えたらいいと思う。

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メランコル

基本エッチな絵を描いてます`~`

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