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未分類
10 /18 2013
nige1
nige2

新作「エロドット・エセアクション逃げろリ!」多分今週中あたり各DL販売サイトに登録できそう。

「ただひたすら逃げるだけ」っていう、ゲームとしてはほんとにシンプルなゲームだけど、「なんの力ももたない幼女が、追いかけ回されて、必死で逃げるんだけど追い詰められて、結局捕まってレイプされるあの感じ」を表現したいがためだけに作ったゲームだから、そこはわりと楽しんでもらえるかなって思う。

幼女が追い回されてレイプされるものってさ、いわゆるエロゲとかエロアニメではよくあると思うんだけど、エロゲだと「逃げて、追いつかれて、レイプされる」が全部文章での表現だから、イマイチダイレクトじゃない感じがするし、エロアニメではそれが全部動きで表現されてるけど、結局見てる自分は「見てるだけ」で、追いかけてる魔物も、追いかけられてる子も、画面の中で、見てる自分とは関係なしに勝手にそういう動きをするだけでさ。


この「逃げる幼女を自分が操作して、全力で逃げて、だけど捕まってレイプされる感じ」が大事なんだ。


他のエロドットアクション系の同人モノって、基本的に「敵を倒すことが可能なシステム」でさ、敵と戦って負けて犯される、とか、あるいは犯されながら冒険する事そのものが目的だったりで、この「本当に戦う力を一切持ってない、本当にごく普通の幼女が、ひたすら逃げて、逃げたけど捕まって、で、レイプされる」っていうのをエロドットでやってるものは、少なくとも自分は見たことない。


なんて強気な事言ってみたけど、同人方面の情報にはかなり疎いほうだから、自分が知らないだけで実は結構あったりしちゃうのかもだけど。


まあなんであれ、今までの子宮脱モノ同様、焦点を絞りすぎてニッチな市場なのは分かってるから、売り上げは期待してない`ー`

数はそんなに売れなくても、自分と近しい感性の人がこのゲームを楽しんでくれたらって思う。

感度と感受性

未分類
10 /09 2013
感度が高い人と感受性が高い人って、よく一緒ごたにされるけど、本当は全く別の気質を指す言葉なんだと思う。


読み取り解像度の低い安物のマウスを使って、パソコン側でマウスポインタの移動速度を最大にする。

で「ポインタの動きを滑らかにする」からチェックを外す。

そうすると、マウスにほんのちょっと触れただけで、マウスポインタは画面の右端から左端へ、一番上から一番下へ、一瞬で行ってしまって、とてもじゃないけど繊細な作業は出来ない。


これが、感度の高すぎる状態だ。


自分なんかもそう。

よく「あなたって感受性が強いのね」みたいに言われるけど、逆。

感受性じゃなくて、感度が高すぎて針が右へ左へ振り切れやすいだけ。



本当の意味での感受性が高いっていうのは、そうじゃないんだ。


「感度が高すぎるマウス」とは逆に、マウスを右へ左へ動かすと、マウスポインタは微細な動きをそのまま体現して、その繊細な動きをするマウスポインタが動く軌道上にある一つ一つを、人生における1ドット分ずつに内包される尊さを感じて、吟味して、大事にできる、それが本当の意味での感受性の高さってやつなんだと思う。


だから、感度の高さと感受性の高さって、ほんとは真逆の性質なんだ。


大半の人はこの2つを混同して、「普通の人以上に、精神的な事柄に敏感な人」を全部「感受性が高い」って言っちゃうけどさ。


今朝、夢に大切だった人が出てきた。


何もかもが上手く行かなくて破綻する夢だったけど、それはまるまる現実を劣化コピーさせたような代物で、馬鹿げた突飛な夢の中で、喪失を追体験したんだ。


目が覚めると意識は異様に昂ってて、頭のリソースは喪失に関する事柄で全て埋め尽くされてる。


鋭敏過ぎるマウスポインタ。


手を触れただけで、画面の端っこまで飛んでっちゃう。


キャリブレーションは効かない。


盲目になって、些細な動きに対する繊細な認識力をロストする。


最果てから最果てへ。


うまくいきそうだった試みの全てが一瞬でどうでもよくなって、破綻のイメージしか抱けなくなる。


自分の中にどうしようもなく姑息で卑怯な自分がいて、そいつはずっとブツブツ念仏みたいに言ってるんだ。


しょうがなかった。どうしようもなかった。誰にもどうにも出来ない事だった。だから自分は悪くない。、相手が悪いわけでもない。あれはどうしようもないことだった。なら、現状は最善だ。何も間違ってない。どうしようもなかったんだから、どうにもできなかった自分は正しくて、その道の上でノウノウと「それなりの今」を満喫してる自分は間違ってない。この喪失感こそが間違ってるんだ。
どうしようもなかったことなのに、どうにかできたはずなんて思うから喪失感で埋め尽くされる。どうしようもなさを認めれば、現状は何も間違ってない。どうしようもない事柄に翻弄されて、ただ流されて今に至っただけだ。自分は間違ってない。自分は悪くない。だから気に病む事もない。苦しむ必要もなくて、悲しむ必要もない。


そんな考えをアンチテーゼのようにぶつけて、ぶつけて、再三ぶつけて、今朝見た夢がもたらす最悪な残響音を掻き消そうとしてるんだ。


自分は、感度に関して言えば、高い部類の人間なのだと思う。


けれど、決して「繊細で感受性が豊かな人間」ではない。


もしそうなら、これほど盲目にはならないでいられるはずなんだ。


喪失の悲しみって、実は誰が味わう悲しみも、本当は大差ないんじゃないかって時々思う。


恋人を失って、茫然自失で路上に座り込んでた時、今風な若者が酔っ払って絡んできて、彼も、恋人に捨てられたんだと言う。


「でもやっぱウジウジしてちゃだめっすよね!次っすよ次!さくさく行かなきゃ人生待ったなしっすよ!」


ってさ。


そんな風に言える彼の喪失感は、自分が今感じてる喪失感より軽いわけじゃなくて、きっと彼も自分と同じくらい鮮烈に喪失感を感じてて、泣きたいくらい痛みを感じてて、ただ彼は針が振りきれて盲目にならずにいられるから、そんなふうな前向きな選択も出来て、対する自分は「感受性ではなく感度」が高すぎるから、いつまでも針が悲しみサイドに振り切れたままで、自分と彼の間にあるのはそういうキャリブレーション的な部分違いであって、だから本当は、人の痛みって実は、自分が感じてるそれも、他人が感じてるそれも、それ自体はあんま大差ないんじゃないかって。


その時、そう思ったのを今思い出した。


確信のような気持ちもある。


人は、他者の痛みを本当の意味で理解することは出来ない、とある人は言う。


でも現実はそうじゃなくて、同じ痛みを味わった人なら、その痛みそのものを理解する事は本当はできるんだけど、その痛みに対する反応の度合い、つまり「感度の違い」がそこにあるから、同じ出来事でも、受け止め方が人によって千差万別って形になるだけでさ。



家族をレイプされて殺された親が言う。


「あんな酷いことが平気でできる犯人は絶対に死刑以外ありえない。娘の味わった苦しみをあいつにも絶対味わわせてやる」


また別の、事件に巻き込まれて恋人を失った人がいう。


「確かに犯人が憎い。殺したいほど憎い。けれど、自分が憎しみに囚われて、盲目になって、復讐心という悪魔に取り込まれることをこそ、死んだ恋人は一番望まないだろうから、自分は憎しみと復讐に堕ちる事は出来ない。そして人間は変わっていける生き物だ。自分の大切な人を殺した彼だって、いつかどこかで自分の過ちに気付く時がくるかもしれない。そんな人間の持つ可能性さえ見失ってしまう事を、自分が「そういう風に欠落した人間」になってしまうことを、やはり死んでしまった恋人は絶対に望まないだろうから、死んでしまった恋人を切実に思えばこそ、恋人を殺した犯人を許すしかないんだ。それ以外を選ぶことが自分には出来ない」


感度の違い。
感受性の違い。


大事なものを奪った犯人を許せるような、そういう感受性にいつも憧れてた。


でも現実の自分は無駄に感度が高すぎて針はいつも右か左に振りきれてて、言ってしまえば感受性の高い人間に憧れたのだって、感度の高さ故なんだ。


ずっと感受性の豊かな人に憧れてた。


そうなれる自信は年々すり減っていく。


むしろ感受性の対局にいる自分には、到底無理なんじゃないかと思う。


自分を信じること、自分を愛することは何より難しい。


自分を愛してるかどうかについても、今ちょっと考えた事があるんだ。


よく、強欲で我侭な人を「自己愛が強い」というけど、自分もずっと、今さっきまでそう思ってたけど、それってやっぱり誤りだと思う。


自分を本当に愛してるなら、何が無くたって、欲しいそれに手がとどかなくたって、それでも自分を愛せるはずなんだ。


自分自身をありのままに愛せていないからこそ、欲しいものを手にすれば、自分の人生を今より愛せるんじゃないかと考えて、強欲になるんだ。


だから、強欲な人、我侭な人って、ほんとは自己愛が強い人なんじゃなくて、自分を愛せない人なんだと思う。



かくいう自分は、残念なことに、とても強欲な人間だ。


今まで色んなものを失ってきたし、奪った人間に対して「それでも許したい」と心の表面でそう思いながら、でも、心のどこかではずっと憎み続けてきたんだ。


許したいと思う、その願望と、許すことが出来ない現実の自分はだんだん乖離していって、もう手を取り合うことも出来ない。


僕は多分いつまでも、許したいと願いながら、許せない人間のままなんじゃないかって思う。


人を本当の意味で許せる人間は、自分自身を許すことも出来るんだと思う。


自分を許せない人間は、やっぱり本当の意味で人を許すことも出来ないんだと思う。


許したふりをするのが精一杯でさ。


許すことに精一杯になるべきなのに、いつだって許した「ふり」をすることに精一杯で、根本からずれてるから、何も良くはならなくて、むしろ悪い方へ悪い方へ、さ。


自分の人生もだけど、ある種の人達は大抵同じようなスパイラルに陥ってるように思う。


そうして世の中は少しずつ悪くなっていって、陰惨な様相を呈するようになっていく。


自分はいつも「少しずつ悪くなっていく世の中」を敵視して、文句をつけてきたけど、現実には、自分も世の中を悪くしてる側の一人なんだと思う。


自分で世の中を悪くしながら、悪くなった世の中に唾を吐いてさ。


そうやって余計悪くなっていくんだ。


悪意のある大人たちがしてることは、大抵自分自身がしてきたことでもある。


だから、結局つまりは自分が許せなくて、だから人が許せなくて、だから。


いつか許せたらいいと思う。


許すためには、上辺じゃない、本当の愛が必要なんだと思う。


いつか出会えたらいいと思う。

いっぱい

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10 /08 2013
なんだかんだで2週間に1本ずつ出してる気がする。

正直、そんな駆け足で出しまくるより、一個ずつをもうちょっと丁寧に作るべきなんだろう、そのほうが買ってくれる人に申し訳も立つし、売上だって多分そのほうが伸びるだろうっていう考えもあるんだ。

でも、形にしてみたいアイデアがいっぱいあって、アイデアってどことなくナマモノっぽいところがあって、アイデアの発生の瞬間が一番アツアツで、放っておくと段々冷めていってしまうんだ。

「冷めてしまうのはその程度のアイデアだから」という見方もできるけれど、音楽や小説や絵をやってみて思うのは、どんな素晴らしいアイデアでも、形にせず、放ったらかしにし続けてると、色褪せちゃうってこと。

いつかもう少し色んな意味で技術や知識が身についたら、サウンドノベルとか、アクションRPG風に仕立てて、もっとちゃんとしたコンテンツに仕上げたいって思う。

ただ今は、湧いてくる色んなアイデアを片っ端から形にしてみることで、自分にどの程度の事が出来るのかを知っておきたいっていうのと、アホみたいに毎日15時間とか絵をひたすら描きまくる事で、できる限り「絵を書くこと」に慣れて、今はまだ頭で考えて「ここはこうして、こう」ってやってる部分を脊髄反射で出来るレベルまで磨いて、歴の至らなさをなるたけ早く克服したいっていうのもある。

ペンタブを買ったのが今年の頭で、それまで1年に1,2枚、マウスでらくがきとも呼べないようなのを描く程度だった。

10年20年絵を描いてきた人達とは、比べるのもおこがましいくらい低い場所にいるっていう自覚がある。

ある程度のレベルに達したら、一個一個の絵をより丁寧に磨き上げていく、そういう努力が意味を成すんだと思うけど、今のレベルで1枚の絵に30時間注いでも、ぶっちゃけ5時間で描いたものとさほど違いが出ないんだ。

まずは今5時間かかってるものを、1時間で仕上げられるようにしたい。

そのためには「ええと、これをするにはこのキーだったな、で、レイヤーがこれで・・・」ってイチイチ考えながらやる時間があまりにも余分で、そういう作業的な部分をできるだけ早くこなせるようになるためには、まずひたすら数をこなして、頭で別の事を考えながらでも手で自動的にそれができる、位のレベルになる必要があって。


ギターもやっぱりそうで。

頭で「このコードの次は、このコード」とか考えてるうちはどんなにいい演奏をしようとしたって、ホントの意味で感情移入なんて出来ない。

もうコードとか一曲の演奏くらいはアタマからっぽにしてても指が勝手に演奏してくれるくらい叩き込んでようやく、メロディや歌詞の一つ一つが紡ぐ風景に全意識を傾けて、本当の意味で感情移入しながら演奏出来るようになる。

絵だって、やっぱり同じで、自分はその意味で、まだ「コードや楽譜を頭で考えて弾いてるレベル」なんだ。

まだまだ全然足りない。


こんな「個人的な技術研磨の練習作」でお金をとっていいものか、っていう呵責もある。

でもやっぱり人間が生きていくには幾らかのお金が必要で、絵でお金を稼がないとなると、他の事でお金を稼がなきゃいけなくて、自分みたいに学歴も職歴も大して無い人間は時給いくらのバイトが精々だから、労働にすごく時間を取られるのに、お金は貯まらないって状態になる。

仕事に追われて、やりたいこともできない、そのうち段々疲弊していって、仕事の後、帰ってきて好きなことをやる気力も湧かなくなって、負のスパイラル。

そういう時期が去年までしばらく続いてて、だからここいらで流れを無理やり覆して見ようと思って。

派遣のアパレルの仕事や、夜の新宿で身体を売ったりして強引に200万貯めて、今はそれを切り崩しながら、絵だけひたすら毎日描いてる。

着実に減っていく預金残高、その不安と焦りも、作品を出すペースに幾らかの影響はあると思う。


大体想像はついてるんだ。


結局、同人活動も鳴かず飛ばず、モノにならないまま貯金が尽きて、また安いバイトか、それが嫌なら夜の仕事に戻るハメになる。


大抵の人がそうなるように、今までの自分の人生も大抵そうだったように、きっと今回もそうなる。


分かってるんだけど、”やらないまま終わる”って事がなにより耐えられないんだ。


やって駄目なら、納得つくじゃない。


それに、アパレルも、夜の仕事も、憧れだけでその業界に入って、どっちの業界でも多少の成果は出せたけど、それ以上に「やっぱり自分のこれは、ただの憧れだった。自分は本当の本心でここにいるわけじゃない」っていう実感の方が大きくて、どっちもドロップアウトする形で辞めちゃったけど、後悔はあんまりないんだ。


アパレルって実際、センスや「服が好き」ってことより、「お客さんをいかに騙して、重ね売りをするか」が求められるんだ。

接客について、単価が高いものをいっぱい買ってもらえた時、店長に笑顔でこう言われる。

「でかした。よくあの客を堕としたな」って。

堕とした、ってさ。


客を、陥れたってこと。


そういう認識なんだ。


来てくれるお客さんにとって、本当に意義あるアイテムと出会って欲しい、そういう提案がしたい、そんな思いだけでは売り上げは足りないんだ。

ノルマが月、ひとりあたり460万とかだもん。

クリアするためにはほとんど騙してるみたいな売り方も必要になる。

売上がイマイチ伸びないと「そういう売り方」を暗に強要される。


お客さんに納得してもらえる仕事を頑張る、なら全然できるけど、なんだか、「その売り方」は、あんまり頑張りたくないな、その売り方のプロにはなりたくないなって自分は思っちゃった。


身体を売る仕事はもっとシンプルだったけど、やっぱり普通の仕事と違って病気の危険とか、同僚の誰々が事件に巻き込まれたとか、そういうリスクがやたら高くて、最初夜の新宿に飛び込んだ時は「どうせ失うものもないしどうなってもいいや」ってつもりで行ったけど、やっぱり親しい友達とか家族とかに「あんた、何をするのもあんたの自由だけど、あんまり危険な事はするんじゃないよ。あんた自身はそれでいいかもしれないけど、心配する側の身にもなってくれ。変な事件に巻き込まれるんじゃないか、HIVとか変な病気もらってきちゃうんじゃないかって不安で夜も眠れないよ」って言われて、なんだか、この仕事をどれだけ頑張って、どれだけ成果を出しても、自分の周りの人間は誰も喜ばないんだなって思ったら、なんだか、うん。

でも夜の新宿での売上自体はアパレルの頃よりも良かった。

アパレルと違って、売るものが「自分自身」で、かなり自由な接客スタイルが許されるから、売上げ度外視でとことんお客さんに親身なスタイルでやったら、やっぱりその分お客さんも信頼で応えてくれて、自分を指名してくれる人達も、すごくいい人が多くて、売上も店で2位くらいをキープ出来たし、性格的に向いてはいたんだと思う。

生まれつきの病気の事もあって、普段プライベートで人に肌を触られるのはすごく苦手なんだけど、仕事の時だけは意識を切り替えて、割り切ってるからか、何故か平気で、なにより、お客さんはみんな「服や商品が欲しくて」じゃなくて「自分の事を気に入って」来てくれるわけだから、自分が必要とされてるっていうそういう満足感もあって、だから、そういう意味でも多分向いてた。


そういう色んな事を総括して考えると、自分は人間的な営みや行いだったり、そこに含まれる性的な事柄に強い関心がある人間なんだと思う。


夜の新宿では色んな人間ドラマがあったし、現実は小説よりも奇なりを地で行ってる街で、それもやっぱり、自分の足を新宿に向けさせた理由の一つで。


性とドラマ。

この2つを軸に、なるべく周囲に心配かけるようなリスクがない仕事って考えたら、同人に行き着いたんだ。


同人って、イマドキの意味では単に萌え文化の総称みたいな感じがするけど、元々芥川龍之介とか太宰治とかの世代の純文学的な試みが「同人活動」の元祖で、そこにはやっぱり純文学的性の描写なんかもあって、同人って一口に言っても色んな活動のあり方があってさ。

人間同士のドラマと、エロスの同居は、自分は可能だと思う。

芸術に媚びるわけでもなく、エロに媚びるわけでもなく、単に人間が生きる姿を本当の意味で刮目したなら、性と人間性、そこに生まれるドラマは切り離せないと思うんだ。

「よく出来た綺麗なドラマ」を見てていつも「何かが足りない」って思うのは、そこに性的な描写がないからなんだ。

だって、愛しあう二人がセックスしないはずはなくて、たとえばロマンチックな青春恋愛ドラマで、恋人たちが結構変態風味なセックスをしてたら、それって自分はすごくリアルな描写だと思う。

逆にエロコンテンツだって、いわゆる「古き良き時代のエロゲー」的なものに触れてみると、エロ以上に人間ドラマが大事にされていて、主人公も、少女たちも生きる事の苦悩のようなリアリティを持ってその世界の中で生きていて、だからこそ男女の肉体的なつながりの尊さを際立たせていて、個人的に「難しいこと考えないで単に気軽に抜けるエロコンテンツ」的なものばかりが氾濫する昨今の現状より、もっとそういう方面でエロゲーが発展してくれればいいのになって思う。


話がもうなんかかなりぐちゃぐちゃになってきちゃったけど、でも、自分程度の人間でさえ、こういうぐちゃぐちゃした事情や経緯や心境を抱えながら、やっぱりエロい事を妄想したりもしてて、その両面を足し合わせたものが自分という存在で、どっちかだけが自分なわけじゃなくて、そういう意味で、「単にエロを描く」とか「単に物語を描く」って事に落ち着かないで、「もっとぐちゃぐちゃした、正直な表現活動」に昇華したいって思う。

そのためにはもうとにもかくにも技術と知識が足りなすぎて、今は研磨に没頭するべき期間だと思うから、こんなアホみたいなペースで次から次へとあれこれ出してるんですっていう、、、そういう言い訳?みたいな`ー`


音を鳴らして、どこにも響かないと、なんだかすごく寂しい気持ちになるんだ。

それは別に誰かの為じゃなく、ただ自分が鳴らしたくて鳴らしただけのはずなのに、誰もそれに足を止めず、全くこの世界はその音に一切の反応を示さない、そういう感じになると、とてもさびしい気持ちになる。


結局、音を鳴らすのも、絵を描くのも、物語をアレコレ考えるのも、究極的には誰かと接続されたいからなんだと思う。

もちろん性的な意味も含めて、性的じゃない意味も含めて、さ。


言葉は人とコミュニケーションするためのツールだ。


きっと絵だって音だって、「人に伝える」事を一切度外視すれば、自分の頭の中にだけあればいいはずなんだ。


それをあえて形にして、放出したいと感じるのは、誰かと繋がりたい意識のあらわれなんだろうなって思う。


だから。


これを読んでくれる人が一人でもいてくれること、自分がやらかす結構わりとしょうもない試みを、見守っててくれる人がいることにすごく感謝してます。


おかげで今日も頑張れる気がするよ。


ありがとう。


それじゃあまたね。

メランコルがレベルアップした

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10 /01 2013
っっz1

今までsaiで絵を描いてきて、今日はじめてペン入れレイヤーなる存在を知った!

これ使ったらほんの数分で線画超綺麗にできるやないですの・・・

今まで下手すりゃ色塗りの何倍もの時間をかけてひたすら手作業で整えてたのに。。。

なんかもう今までの不毛っぷりが切なすぎて鼻血でそう。

「ペンで描く。消しゴムで消す」くらいの知識だけでずっとsai使ってたけど、多分まだまだ自分の知らない便利機能とかいっぱいあるんだろな。

高校レベルの数学も大半の問題は足し算引き算掛け算だけで解けるけど、やっぱりそれだと手間が掛かり過ぎるし、公式を覚えちゃったほうが早い。

絵もやっぱり同じなんだなって思う。

数学の偏差値30台だった自分がこういうアレを言ってもなんかアレだけど。。

なんせ説明書解説書の類は読むと群発頭痛起こすレベルで苦手だから、マニュアルとか解説サイトとか完全にスルーしてたけど、これからはもうちょっと真摯に学ぶ姿勢をもってチェックしよう。。

とにかくこれでまた作業速度の大幅な向上が期待できるから、もっと色んなアレに手間暇を注げるってことや`ー`

さてまたバンバン描きまくってこう。

メランコル

基本エッチな絵を描いてます`~`

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